【2014年・御嶽山噴火】
~小屋閉め編~
噴火の翌朝は昨日下山して山陽館に宿泊したという登山者の話し声で目が覚めた。
二の池付近から賽の河原を越えて摩利支天経由で五の池小屋に避難した後に濁河(飛騨口)へ下山したグループは、下呂市が手配したバスで長野県側まで送ってもらったそうだが、田の原駐車場に停めた車は規制エリアに含まれており、当日中の回収は出来なかったらしい(※山陽館に宿泊したのとは違う方の情報)。
そこで、山陽館から目と鼻の先にある三岳交流センター(臨時宿泊所)で一晩明かした30名余りの登山者らと共に、自治体が提供するバスで車の回収へ向かうと言う話らしかった。そして、朝から青空が広がったこの日は、未明から自衛隊や消防などが剣ヶ峰へ向けて救助に赴いたというニュースが流れていた。
噴火の前日には木曽福島まで買出し(荷上げ)に行っていたが、疲労感はあまり感じなかった。おそらく、私以上に大変な思いをしている方々が沢山いる状況では、「疲れた」などと言う気持ちにはなれなかったからだろう。
朝食を済ませた後、午前9時から黒沢口の山小屋及び御嶽神社の関係者による会合が行なわれた。内容は主に噴火当日の様子を各小屋ごとに説明するというもので、写真データの共有などは行なわれなかった。
しかしながら、6合目付近では道路に積もった火山灰により車がスリップして運転不能に陥るなど想像を超える事態となっていたらしく驚いた。また、御嶽頂上山荘のスタッフからは、「噴石が激しくてヘルメットを手渡す余裕すら無かった」等、壮絶な状況が語られた。
そして今後については、行方不明者の捜索活動を最優先に考え、山小屋や二の池水組合が管理する供水施設の小屋閉め(冬支度)はそれらの活動が全て終了してからということに決定した。
一時間に及ぶ会合が終わり外へ出ると、太陽の丘公園にトレーラーの荷台に乗せられて装甲車両が運ばれて来る現場に遭遇した。それは平和な山村には相応しくない光景で、現実とのギャップに目眩のようなものを覚えた。
自衛隊の車両基地として使われていた太陽の丘公園には後日、献花台が設けられた。
到着した装甲車は当日中に王滝・黒沢口の各登山道までキャタピラー走行して移動した。
日本では富士教指団にしか配備されていないため、中央自動車道を通って運ばれて来たと言う。
以下、ネットで見つけた画像です。
今回、捜索に使われたのは89式装甲戦闘車と言い、投入された理由は多くの乗員を兵員輸送車であること、悪路でも走行可能なキャタピラ仕様であること、熱に強い鋼鉄製車体であること、噴石に耐える厚い装甲を備えていること、そして何より火山性ガスを無力化するNBC防御力という特殊な性質を持つことが挙げられる。
また、戦車と違い、後部には観音開きのようなハッチがあることから、人員の出入りや怪我人の搬送に適していると言う。
全長6.8メートル、幅3.2メートル、全高2.5メートルで重量は26.6トン。乗務員3名+兵員7名の乗車が可能。
トレーラーで運ばれて行く車両を朝日新聞の記者が撮影
黒沢にある木曽温泉を通過する89式装甲戦闘車
王滝口・7合目、田の原駐車場に配備された車両
【2014・9・28以降】
当日は着の身着のままで下山して来たため、28日は会合終了後、オーナーにイオンまで連れて行ってもらい洋服やサンダルを購入し、念のため木曽病院で健康診断を受けた。今回の噴火はマグマの影響によるものでは無かったため、火山灰の中にガラス成分が含まれておらず、肺(レントゲン撮影してもらいました)も眼球も異常なしだった。一応、目が充血していると言うことで目薬を出してもらったが、医師にも伝えた通り、これは単純に寝不足が理由だと思われる。
木曽病院の玄関には多数の報道陣が詰め掛けていたが、下山後に当日の状況を説明した以外にはコメントすることが無かったので顔を背けるようにして駐車場へと向かった。中には「○○新聞ですけれど・・・」と声を掛けてくる記者もいたが、前述の通り何も答えることが無いのでノーコメントを貫き申し訳なかった。
この日はオーナーが持っている建物へ居を移した。そして、夜にはオーナー親族から労(ねぎら)いの席を設けて頂いたが、テレビのニュースは依然として御嶽山の救助活動がトップニュースで、全員が箸を止めて食い入るように見詰めていた。
自衛隊、消防、警察による懸命な捜索活動を見守りつつ、噴火から2日後の9月29日には一旦、木曽を離れることにした。この状況では何も出来ないというのもあるが、噴火したその日は私物のノートパソコンと金庫の中に入っていた現金をリュックに詰めただけで、運転免許証や郵便局のカードが入った財布を丸ごと忘れて来てしまったため、下界での生活に支障が出てきたからである。
実家がある金沢で特例処置(通常、紛失した免許証がどこにあるか定かな場合は原則として応じられないと言う)で運転免許証を再交付してもらってから、木曽へ戻って来たのは11日後のことだった。
2014年10月11日、開田から見た御嶽山の噴煙。この場所から御嶽山を眺めるのは雪に覆われてた3月、新緑が眩しかった5月に続いて3度目だ。午後の光を浴びて輝くススキに季節の移ろいを感じるが、もくもくと上がる噴煙に心を痛める。
2014年10月12日、黒沢口3合目付近から見た御嶽山。垂直に上る噴煙の下では今日も懸命な捜索活動が続いており頭が下がると同時に、直接、捜索に協力出来ないのが悔しい。捜索開始以来、2つ目となる台風19号が接近しており、隊員と安否不明者、両方の身が案じられた。
二の池周辺でも3名の安否不明者が見つかった
現場では命がけの捜索活動が行なわれていた
最も多くの犠牲者が出た剣ヶ峰付近は火山灰が50センチ近く堆積しているようで、困難な捜索が続いていると感じた。
【山小屋としての後方支援】
今回、不思議だったのは噴火直後からこれまで一度も山小屋関係者に協力要請が無かったことだ。地元の遭対協や御嶽山強力案内人組合にも捜索に関する問い合わせは一件も寄せられず、地元の関係者は首を傾げた。
御嶽山の地形や登山道について事前にどれだけの認識を持っていたか定かでないが、噴火した翌朝に隊列を組んで入山する自衛隊員の姿をニュースで見た時は頼もしく思う反面、非常に心配な気持ちにもなった。
そして、その思いは日増しに強くなって行った。
重い盾を持って剣ヶ峰へ続く稜線上を進む自衛隊員
山頂の条件悪化により黒沢口・9合目付近で足止めされる救助隊。この後、下山することになった。
捜索開始から5日目となる10月2日は午前6時から230人が入山、うち王滝口から登山した部隊は王滝頂上や八丁ダルミ東側斜面などの捜索に当たったが、黒沢口から入山した部隊は山頂へ辿り着く前に雨が降り始め、撤収が告げられた。
その日のニュースでは弘法大師の像がある8合目付近で自衛隊や消防などによる捜索隊が待機している様子が映し出されていたが、6合目からそこまでは2時間以上掛かる。いくら訓練を積んだ屈強の隊員たちと言えども、重装備で臨む標高3000メートルでの活動は大変な苦労が伴うものだと思われた。
そのような状況下での懸命な捜索を目の当たりにして、私は長野県の災害対策本部と長野県公明党本部に設置された災害対策本部へ一本の電話を入れた。
それは、「御嶽山にある山小屋を捜索の拠点として利用してはいかがでしょうか」という提案で、その後、二の池本館、9合目・石室山荘、8合目・女人堂のオーナーや責任者と連絡を取り合って正式に提供する意思を伝えた。
各窓口では「提案を伝えます」と言う心許ない返事だったが、翌日には長野県消防本部と長野県公明党本部からそれぞれ、大変有り難い申し出だとの連絡があり、前向きに検討して行くとのことだった。
その後、正式な要請があったのは、寒さが厳しくなって高山病の症状を訴える隊員が出始めた10月12日のことだったが、この提案以降、台風による風の影響や通過後の地表の変化(ヘリの発着に関する質問)、登山者が避難する際に水深3・5メートルの二の池に落ちた可能性は考えられないかなどの問い合わせを受けた。その際には、自分の経験に基づいた助言をしたり、より詳しい人を紹介するなど、少しでも捜索の役に立つ情報を提供出来るよう努めた。
一方、「御嶽山噴火を今後の教訓として活かすにはどうすれば良いか」「山小屋に対する思いは」と言う、テレビ局(少なくとも2社)からの電話やメールについては、火山の専門家では無いことと、御嶽山の山小屋は個人経営のものが多く、一人ひとり考え方や思い入れが異なるので一概には言えないということを説明してお断りさせて頂いた。
今となってはもう取り返しが付かないが、私はもっと違った意味で御嶽山が有名になって欲しかった。
【2014・10・14~15】
台風19号の接近に伴い、13・14日の捜索は早い段階での中止が決定された。再び木曽に戻った私もSさんも激しくなった雨音を聞きながら手持ち無沙汰な2日間を過ごした。
臨時のヘリポートとして使用された王滝村のスポーツ公園
ヘリの離発着を待ち構える沢山の報道陣
15日の正午過ぎ、上空を飛行する自衛隊の大型ヘリ
10月14日、捜索活動の最前線がどうなっているのか気になったので実際に行って見た。
王滝村にある松原スポーツ公園には臨時のヘリポートがあり、敷地内には入浴施設も設けられていた。
入浴時間の変更を告げる案内がイスに貼ってあった
ちゃんとイスや洗面器も用意されている(ネットより転載)
公園の建物内に置かれた盾。山小屋を提供する意図には、毎回これを持ち運ぶのは大変だろうという気持ちも込められていた。
駐屯地のすぐ側を流れる川の水は火山灰を大量に含み濁っていた。
台風の大雨による土石流が心配されるのも頷ける。
宇都宮飛行場から派遣されたUH-60JA。今回の捜索活動では多くの怪我人や心肺停止の登山者を搬送した。
この日は捜索が行なわれなかったので、現場を視察して来たのだろうか。
機体が火山灰の中に沈まないよう、スキーのようなものを履いている。
【2014・10・16】
台風19号の通過後、15日から再開された第3期の捜索は人数をこれまでの2倍に増やした大規模なものとなった。
信濃毎日新聞より転載
しかし、初冠雪が記録された頂上付近の捜索は困難を極めた。更に翌16日には登山道や山小屋周辺も含めた広範囲に亘る捜索が行なわれたものの残された安否不明者の発見には至らず、その日の夜には長野県知事から今年の捜索の打ち切りが発表された。
この発表が行なわれる少し前に事前連絡を受けた私たちは先月28日以来、2度目となる会合を開催したが、知事の会見が始まるとテレビの画面を一斉に注視した。
「断腸の思いで捜索の中止を決断した」という知事の言葉を背筋を延ばして聞きながら、私も同じように唇を噛んだ。
それからすぐに色々と質問を受けた長野県消防本部の担当者から電話があり、捜索打ち切りの報告と協力への感謝の言葉を頂いた。
【2014・10・17】
捜索が打ち切られた翌17日、木曽町から黒沢口の山小屋に対して特別の入山許可が下りた。木曽町長はじめ、役場の方々の多大なる協力の賜物である。
依然6名もの安否不明者が残されている中での入山はご家族の皆様や世間一般から見れば非難される面もあるのではないかと萎縮する気持ちもあったが、捜索と小屋閉めは分けて考えなければならないと自分に言い聞かせて、最後まで自分の仕事を全うする覚悟を固めた。
木曽町から貸し与えられた防毒マスク。前日、Sさんと何度も装着テストをして万一の事態に備えた。
自衛隊員の方々が使用してたものと全く同じものだが・・・
・・・効果の程は微妙らしい。他に軽装マスク、ゴーグルも用意して頂いたので、それらを使って安全第一に作業に取り組みたい。
【2014・10・18】
夜明け前の午前4時40分に三岳を出発して6合目・中の湯(駐車場)へ向かって山道を走る。すると5合目・八海山神社を過ぎた先に、「進入禁止」のゲートが現れる。
噴火口より3キロ圏内、立入禁止の看板(ネットより転載)
すると、こんな暗い中からゲートの側にライトを持った人がいる。役場の方だろうかとも思ったが、ゲートを開けて進入する際に新聞記者の方だと判明した。私はてっきり捜索が終了したのでメディアも撤収したものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。
そう言えば、東日本大震災の原発事故で立入禁止区域に指定された浪江町の住人が自宅に戻る際にもメディアの注目を浴びていたことを思い出した。彼らは自分の自宅であり、私たちは山小屋(営利目的の施設)という違いはあれど、先祖代々受け継いで来た大切な我が家のように思っている小屋主がいることを理解して頂けると有り難い。
多くの犠牲者を出してしまった以上、強くは言えないが、かくいう私も二の池本館は大切なお客様をお迎えする自分の家のような存在だった。なので、小屋閉めくらいは注目されること無く、そっとして置いて欲しいというのが正直な気持ちだった。
画面が陽炎(かげろう)のように揺れていたのは気温が高く空気が熱せられていたからだと思う。
望遠レンズで撮影した映像がHNKの全国ニュースで流れた時は流石に大袈裟過ぎるだろうと感じた(黄色と青色の雨具を着た人物の間にいるのが私です)。
さて、話は18日に戻り、午前5時41分、明るい朝焼けに包まれた御岳ロープウェイ山頂駅に到着した。
木の枝の向こうに中央・南アルプスが連なっている。
夜明けが近い。
午前6時05分、7合目・行場山荘を過ぎたあたりで御来光が出た。
紅葉前線はもうすっかり麓まで下がってしまったようだ。
午前6時43分、8合目・女人堂に到着。噴火当日とは風向きが異なり、白い煙は王滝方面へ流れている。
好天に恵まれたこに感謝しながら9合目を目指す。
噴火前日の9月26日に撮影した女人堂周辺。御嶽山随一の紅葉スポットなので降灰の影響が心配だ。
足元の水溜りが凍っていることはあったが、8合目までは降灰も少なく、いつもと同じペースで進めた。
8合目と9合目の中間にある弘法大師像まで来ると灰が目立ち始める。
元々は黒色の軽石に覆われていた場所も今は灰で一色だ。
午前8時14分、石室山荘に到着。この付近まで来ると20センチ以上、火山灰が積もっている場所もあり、足元がぬかるみ非常に歩き難かった。
噴石の影響こそ免れたものの、地表は壊滅的なほどのダメージを受けていた。登山道も含めて人為的に灰を除去しない限り、登ることすら困難である。
噴火当日に撮影した石室山荘付近は厚く灰が積もっていた。
しかし、裏手の斜面は2度の台風によって灰が流されており、岩肌が見える部分もあった。
本日宿泊する石室山荘に荷物を降ろした後は、一時間ほど休憩してから二の池本館を目指して出発した。
2013年7月9日に撮影した噴火前の覚明堂周辺
9合目半・覚明堂を通過する。石室山荘直下から覚明堂の上までが最も激しく火山灰が降った場所のようで、登山道に溜まった灰がぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。
一歩足を持ち上げるごとに重い火山灰の塊が登山靴にべっとりと付着するので下半身の体力を非常に消耗する。捜索隊の方々の苦労を身を以って体感し、改めて頭が下がる思いがした。
2013年7月9日、歩き易かった頃の登山道
午前9時17分、覚明堂を通過したところで来た道を振り返る。
噴火前の霊神場(2013年7月9日撮影)
覚明霊神を祀った霊神場はそれほど被害を受けなかったようだ。
覚明霊神の足元にある石仏は半分、灰に埋まっていた。
台風の雨によって浸食された山肌。一部、木段が崩壊している部分もあったので、かなり激しく降ったのだろう。
その先にある分岐を右折した光景。画面中央に細長く見えるのは白菜が降灰被害を受けた開田高原。
2014年9月26日、荷上げの帰りに撮影。
そこから更に進むと二の池が見えて来る。右手前は台風の雨が溜まって出来た2・5の池で、一部、凍っている。
少し寄り道して覚明行者入定の地まで行ってみた。
そこから二の池へ向かうまでは一面の灰世界。手前に見えるのは漣(さざなみ)が凍った霜柱。
2014年9月26日に撮影した2・5の池。この時も台風の雨で水が溜まっていた。
尾根上から2・5の池を見下ろす。
遂に二の池本館に到着。さあ、ここからが仕事本番だ。
噴火当日、避難を開始する際、「置いてきぼりにしてごめんなさい」と軽く頭を下げた建國姫龍神と三週間ぶりの対面を果たす。エメラルドグリーンから灰色に変わった二の池を見てショックだった。
火山灰は池全体に漂っており、透明度が失われていた。
湖畔には風に流された硫黄成分が帯状に付着しており、水質の悪化が懸念された。
16年間見てきた光景とは何もかもが違っていた。
稜線の奥に見えるのは白い雲ではなく、大量の噴煙である。
灰の厚さは5センチ以上、10センチ未満と思われるが、ぬかるんで歩き難い。入山規制が緩和されても登山者が容易に入れない状況は二の池も同じだった。
二の池本館の周辺も灰を被っており、どこから手を付ければ良いのか分からず暫し呆然と立ち竦んだ。
噴石が落下して屋根が破れたトイレには灰が流れ込んでいた。噴火口から1・2キロ離れた二の池本館にも噴石が落下したという事実を重く受け止め、今後の安全対策へ繋げなければならない。
屋根に残った火山灰は3センチ程度。2度の台風で大半が流された状態だった。
2階の部屋は当時のまま時間が止まっていた。
布団を片付けると、薄っすらと灰が積もっているのが良く分かる。
館内の片付けが一段落した後、玄関先に積もった火山灰をスコップで片付けた。
布団やゴザをブルーシートで包み、テレビ、衛星電話のアンテナ、プロパンガス、水中ポンプなどを館内に回収、更にはボイラーや貯タンクのメンテナンスを済ませる。
それと平行して小屋の窓にベニヤ板を打ち付けて行く。雨戸のサンに灰が溜まっており、いつもより時間が掛かったが、午後4時36分には本日の作業を終了し、石室山荘へ戻ることにした。
日没までまだ時間があると言うのに、午後4時を過ぎると氷が張り始めていた。
石室山荘へ戻る途中、無人の田の原駐車場が見えた。
【2014・10・19】
午前6時07分、御来光が昇る。
この瞬間だけは鮮やかな光景が蘇り、感慨深かった。
9月27日以来となる、三週間ぶりの御来光との対面である。
10月19日は午前7時43分に二の池本館に到着した。
目の前で上がる噴煙は昨日よりも明らかに量が多かった。
対岸の斜面は雨による侵食の跡が無数に見られた。
二の池の湖面は広い範囲で凍結を始めていた。
二の池から谷へ注ぐ部分(西野川の源流に当たる)は火山灰も沈降して澄んで見えた。
原水ポンプの燃料となる軽油が入ったドラム缶をSさんと協力して尾根の反対側へ転がす。酸性が強い火山灰の中に長時間置いておくとドラム缶が腐食し、そこから油が漏れ出す危険性があるからだ。
こうして二の池本館の小屋閉めは終了したが、いつもは一週間近く掛かる作業を僅か1日半という超スピードで行なったため、遣り残したことが沢山あるような気がしてならない。結局、当日の午前中にセットした3升の米は圧力釜の中に残したまま下山した。
午後3時40分、後ろ髪を引かれる思いで二の池本館を後にする。トイレの看板は片付けるのを忘れた。
2日目は終日、目の前で上がる噴煙を意識しながらの作業が続いた。時折、冷えた水蒸気が落ちて来て、酸性を帯びたそれが目に入ると痛かった。
昨日と比べても湖畔の氷は厚くなっているように見えた。
新しく色を塗り直したこの看板もしばらくは登山者の役に立てそうに無くて残念だが、木曽町が今年8月31日から2日間かけて整備したロープが噴火の際、登山者の避難に貢献したと聞いて救われる思いがした。
午後3時51分、西日を浴びて噴煙の影が地表に映し出される。
「美しい」という表現は憚られるが、自然が持つ威厳のような独特な空気を感じさせる光景だった。
【2014・10・20】
多量の火山灰が降り注いだ9合目付近では、生命力が強いハイマツですら枯れてしまうのではなかと心配になる。
今回、石室山荘から4名、二の池本館から5名の合計9名が特別許可を得て入山したが、18・19日の2日間で二の池本館の小屋閉めは終了し、都合により途中で下山する石室山荘のスタッフ2名を加えた5名が19日の夕方に下山した。
そして、私とSさんは引き続き石室山荘の小屋閉めに加わって21日の昼過ぎに下山した。
今回の入山では小型の火山性ガス探知機を携行したが、二の池本館での作業中に作動することは無かった。また、24時間体制で地元の自治体と気象庁が警戒に当たり、小まめに定期連絡を入れて下さるなど最大限の配慮を頂いた。
その結果、3泊4日の行程を無事に終えて下山することが出来たのだが、噴火後に滞在することで気付いたことが幾つかあった(二の池本館は噴火口からの距離が近いため宿泊許可が下りず、全員が石室山荘泊まりとなった)。
まず、夜が非常に怖いと言うこと。私は疲れていて気付かなかったが、石室山荘のオーナーとSさんは夜中に硫黄の臭いで目が覚めたと言う。また、風や雨の音が噴火のそれと似ており、心が休まらなかったと言う。実際それは私も同じで、少しの揺れでも当日のことを思い出して不安だった。視界が利かないという点では夜の噴火は怖いし、台風や大雨といった悪天候の場合でもそれは同じように思えた。
次に精神的なストレスの問題。常に噴煙が上がっている状況で過ごすというのが、いかに目に見えない疲労やプレッシャーを感じるものかを学んだ。
そして最後に、火山灰の存在が思っていた以上に厄介だと言うこと。粒子が細かいため雨が降ると屋根の隙間から小屋の中に流れてくるし、乾燥した状態で強い風が吹けばどこからでも舞い込んで来るような印象を受けた。また、大量の火山灰を除去しない限り、安全登山は望めないことも判明した。
以上のことから、例え立入規制区域が緩和されたとしても、噴煙が上がり硫黄の臭いが漂う中での通常の山小屋業務は不可能であること、登山道の火山灰が除去されない限り一般登山者の入山は困難であることの2点が言えるだろう。
従って私たち山小屋従事者は規制の解除を急がず、徹底した安全対策を講じることに時間を費やすべきでだと思う。今回の噴火は予測不能な部分が多かったが、前回の噴火から30余年しか経っていない事を考えると次にいつ噴火してもおかしくはない。ここで徹底した安全対策を講じずに規制解除に踏み切って万が一、噴火による犠牲者が一人でも出たとしたらそれは間違いなく人災であると言えるだろう。
私たちの務めは、この戦後最悪となった火山災害を真摯に受け止め、次の世代へ胸を張って渡せるような霊峰・御嶽山を新たに構築して行くことだと思う。
※地元の中学生登山が訪れた際、山小屋からの挨拶の中で、「御嶽山は皆さんの地元にある素晴らしい財産です」と話している以上、これは絶対に果たさなければならない約束だと思う。また、全国各地にいらっしゃる御岳信仰の信者さんにも、もう一度、御嶽山に登って頂きたいという思いがある。
【2014・10・23】
石室山荘の小屋閉めが終わってから2日後、私とSさんは今シーズンの仕事を全て終了してそれぞれの地元へ戻ることになった。オーナーからは来シーズンの営業が困難であることを告げられ、「身体に気を付けて過ごして欲しい」といつもとは違った挨拶を受け、塩を振られたナメクジのように萎んだ気持ちになった。
普段ならば3ヶ月間に及ぶ長い山小屋生活を満了した充実感と下界に戻って来た高揚感に満たされるのだが、今回は全くそのような気分にはなれなかった。心の中に雲が掛かったような気持ちのまま、私たちが最後にオーナーと一緒に向かったのは、太陽の丘公園に設けられた献花台だった。
用意した紫と白の花を供えた後、厚い雲に覆われて見ることが出来ない、けれど、私の目にはハッキリと映る剣ヶ峰の方角へ手を合わせ、静かに頭を下げた。
犠牲者の魂が少しでも安らかに眠れますように。
木曽福島の道の駅で山積みにされていた開田高原の御嶽はくさいを一つ購入して帰途に就いた。
最後になりましたが、今回の噴火で犠牲になられた方々に深く哀悼の意を表します。また、全く予期せぬかたちで大切な方を失った御家族、御友人の悲しみを思うと掛ける言葉もございませんが、心よりお見舞い申し上げます。
そして、今なお残されている6名の安否不明者が雪解けと共に一日でも早くご家族の元へ戻れますよう願って已みません。どうか皆様がこの困難を乗り越えて行けますよう、お祈り申し上げます。
過酷な環境の中、最後まで捜索活動に当たった自衛隊、消防、警察の方々へ心より敬意を表します。
本当にありがとううございました。